心と体

2011年3月21日 (月)

東北関東大震災について

この度の大震災におきましては、多くの方が被災し或いは傷つかれたことと思いますし、日頃より「全感覚派」や展示参加メンバー、その周りにいらっしゃる多くの方々にも、被災に遭われたり、関係の深い方がいらっしゃるでしょう。心よりお見舞い申し上げます

そうした中で、今回の出来事は「美術」の意味、そして社会や現実との関係を考える上でも、多くの問いと試練を投げかけているように感じています

 全感覚派はあくまでも美術についての思潮であり、考えとしての運動です。発起人の高橋の脳内から流出した妄念かもしれません。ですから、今回の出来事について、団体的なアクションは考えておりません。関係各位がそれぞれの考えの中で、日常を愉しみ、或いは募金その他のアクションを行い、また制作やライブなどでできることをやっていけばいいと考えています

 個人的には、一見不謹慎と見えることでも、「美術」はその本来の自由を失わず、自由な表現を守っていかなくてはならないし、長い目で見ればそれが倫理となると考えています。ただ、こうした非常時においては、別の配慮も必要なこともあるかもしれない。明確な答えは自分にはありませんが、そうしたことも今回の展覧会で考える契機となればいいと思っております

 一方で、津波や災害は、しばしば表現において重要なテーマとなってきました。我々はそこから人の残酷さや自然の脅威、人の空しさなどさまざまなことを学んで来たと思います。今回、いみじくも災害現場ではそこで懸命に頑張る人々の表情だけでなく、人の力の及ばない自然災害すら美しく記録されておりました。芥川龍之介の地獄篇もまた脳裏に浮かぶのですが、表現にたずさわる人間はどうしてもこうした矛盾に苦しまざるを得ない。何が正しいということでなく、表現において絶対的な倫理などないという中で、何を描き、それがどう影響するかということについては、有名、無名、その小ささや大きさに関わらず、問いかける必要はあると思います

 今回、クリント・イーストウッドによる傑作「ヒアアフター」の公開中止についても、そうした芸術の持つ難しいポジションが端的に顕われていると思います。ディザスター映画のような体裁で宣伝されたけれども、あの静かな救いの映画について、いつか震災で被害に遭われた方にこそ、見ていただきたいと個人的には思っています 
 また幾つかの深夜アニメの中止などもあった気がします。倫理的に正しいかどうか議論の起きる作品には、どこか人の心に踏み込む力もまたあるということなのだと思います。そこにその作品の力はあり、勇気を持って人は表現に踏み込むべきですが、検閲でなく、そうした配慮もまた時として起きることについても、考えていかねばならないのかもしれません。とはいえ、表現者自らが描くものを制約する必要は一切ないと信じています

 とりあえず町が平穏を取り戻し、今回のことを契機に、戦後の日本の成長をベースとした歩みに何らかの変化が起こり、さまざまな階層の人々が遍く生を謳歌する社会になればいいなとは思います。その中で、表現がその力をいかに行使し、日本と言う特殊な社会において、その存在をいかに示し得るかが試されていけばいいし、そうあらねばならないと思います

高橋辰夫